整備士から異業種へ転職した男のリアル|VELNISのプロフィールと経歴

VELNIS
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・・・世の中には2種類の男しかいない。

ブラック企業に人生を蝕まれる男か、 ブラック企業を踏み台にして新たなステージへ飛び立つ男だ。

俺か? もちろん後者の男さ。

AT自動車から始まり、コンテナ修理会社ADに勤めながらの副業デビュー。

WGでの超絶ブラック体験を経て、あの最高峰の輸入車「L」の整備士へ。

労働基準法が守られた高級企業「L」に夢を見たが、 入社7日目に受けたパンチが、俺の心を静かに折った。

会社を辞めると妻に告げた俺に、彼女は「理不尽はどこにでもある」と笑い飛ばす。

人生はそういうものだと思うか? いや違う。

理不尽はどこにでもあるだろう。

だが、理不尽を超えた暴力を甘んじて受け入れる必要なんてない。

「理不尽を我慢しないで良い世界」を創ることが、俺の使命だ。

VELNIS──俺が掲げる生き方

人は名を与えられて生きる。

だが、“自分の名を自分で選ぶ”者は少ない。

VELNIS──それは、俺が自分に与えた覚悟の証だ。

この名前を名乗ることにした理由は明快だった。

誰かの指図を受ける人生を終わらせ、自分自身の意志で生きていくと決めたからだ。

整備士として、副業の実践者として、家庭人として。

俺は何度も“理不尽”という名の壁にぶつかった。

社会の常識、組織の論理、上司の価値観、家庭のルール。

すべてが俺という存在を削り取ろうとしてきた。

でもな、俺は気づいたんだ。

「誰かの人生を生きてるフリをしたまま、終わってたまるか」ってな。

VELNISという名は、他人の期待や型にはまるのを拒否し、 “俺自身を生きる”と決めた人間の生き様だ。

逃げたわけじゃない。

立ち向かうために、戦い方を変えた。それだけのこと。

この名に、媚びはない。 この名に、嘘はない。

この名を掲げる以上、俺は常に自分に問う。

「それはVELNISにふさわしい生き方か?」と。

そうやって、今日もこのブログを書いている。

VELNISという名の意味

VELNISという名前には、最初、深い意味なんてなかった。

響きが良くて、覚えやすくて、ブランドとして通用しそうな── それが名付けたときの正直な理由だった。

誰もが名を聞くだけで、その人物の姿勢や生き方を思い浮かべるような── そんな“象徴”になりたかったんだ。

よくあるだろ?

この人の名前を聞いたら、こういう生き様だ… とイメージが湧いた経験。

けれど、名乗り続けるうちに──名前が、俺を鍛え始めた。

最初は、VELNISを「演じていた」つもりだった

だが気がつけば、VELNISという人格がリアルに染み込んでいた。

「その行動はVELNISにふさわしいか?」「その妥協は、VELNISなら許すか?」

そう問い続けることで、 俺はリアルでも“VELNIS”という名にふさわしい人間になろうとした。

──そうしているうちに、いつしか“演じていた俺”が、 本物になっていた。

VELNISとは、設定じゃない。

演出でもない。

それは、、、

俺の中に生まれた「もう一人の俺」だ。

ブランドとは、名を磨くことじゃない。

名に見合う生き方を、地道に積み重ねることだ。

そしてこの名前に込めた意思を、ブログを通じて“証明”していく。

それが、VELNISの意味だ。

俺はいつから“俺”を演じるようになったのか──そんな問いすら意味を失うほど、社会は個人を型に嵌(は)めようとしてくる

だけどな、俺は知ってるんだ。

本当に強い人間ってのは、誰かになろうとしない。

“俺は俺”でい続ける奴なんだ。

VELNISという名前には、そんな哲学が宿っている。

どこまでも自分という存在を磨き抜き、立ち姿すらブランドになる者のように。

VELNISは俺が俺に与えた、覚悟の仮面だ。

たとえ世間がどう言おうが、俺はこの名前に恥じないように生きる。

どんな場面でも「VELNISならどうするか」と、自分に問いかける。

“俺”としては許せても、“VELNIS”は許すかな?──その境界が、俺を高めてくれる。

俺の尊敬する矢沢永吉が言った

「俺はいいけど、YAZAWAがなんて言うかな?」

その感覚が、今の俺にはよく分かる。

VELNISという名前があることで、 弱さや逃げを否定し続けられる。

そして、ただ生きるんじゃない。美しく、強く、生きるんだ。

それが“俺は俺”という哲学であり”VELNIS”の意味だ。

整備士としての波乱万丈──ブラック企業を渡り歩いた軌跡

整備士歴16年──

と聞けば、多くの人は「安定」や「専門性」を連想するだろう。

だが、俺のキャリアはそんな薄っぺらい言葉で片付けられるものじゃない。

T自動車でもっとも歴史のある“赤いTディーラー”に始まり、 有給休暇すら存在しなかったコンテナ修理会社。 違法まみれの町工場を経て、夢を見たはずの”Lディーラー”まで。

履歴書を見れば、たしかに転職の数は多い。

でも、それは「逃げ」じゃない。

むしろ、何度も“現場の真実”と向き合い、「整備士という職業の本質」を突き詰めた結果なんだ。

一度たりとも、適当に働いたことはない。

妥協すれば楽だったかもしれないが、それでは“俺”という存在に嘘がつく。

俺が実際に経験した整備業界の裏側を赤裸々に語る。

いい面も悪い面もすべて含めて──それがリアルだ。

AT自動車時代|軍隊のような研修と「副業禁止」のジレンマ

AT自動車…

ここから俺の整備士としてのキャリアはスタートした。

ディーラーとしての格は圧倒的。

福利厚生、退職金、ボーナス──どれを取っても最高だった。

研修制度もピカイチで、正直ここ以上の職場には今後出会えないかもしれない。

時には、営業所ごとに異なる班長(工場長)によって、残業を全員揃えるなど、給与が減らされるような行為はあった。

ブロックごとの懇親会で、「お前髭それや!」と初対面でビンタをかましてくる黒田というやつもいた。(出勤前に髭を剃り、懇親会の時に伸びていた髭に対してだが・・・)

俺の実家は自営業で居酒屋だが、そこで懇親会になった時も、黒田は酔っ払って、俺の実家の壁に穴をあけた。

そういうとんでもない奴がいたが、それを含めても安定が約束された大企業だった。

だが、その完璧な環境には“自由”がなかった。

ある日、人事から呼び出され、こう言われたんだ。

「YouTubeをやめるか、会社を辞めるか」──と。

副業をしたらいけないと言われた。

俺は副業で金を稼いでいたわけじゃない。

ただ、自己啓発に関する情報で、YouTubeの動画配信を趣味でやっていただけ。

収益なんて1円も得ていなかった。

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俺がそう言うと、彼らは反論した。

「それはソレ、これはコレ」

失笑したのを今でも覚えている。

会社規約にも“原則禁止”とあるだけで、明確に縛られてはいなかった。

さらに入社説明の時も原則禁止だけど、事情があれば可能ですと言っていた。

もちろん、規約にもその通り書いてある。

だが、彼らは俺に選択を迫った。

俺は言った。

「こんな頭の固い人たちがいるところでは働けないので辞めます」

と。

それが、俺と“整備士の世界”の最初の決別だった。

「時代遅れ」の価値観との決別

皮肉なことに──俺が居なくなってから1年後、AT自動車はYouTubeを使った広報活動を始めた。

俺が「時代遅れ」と感じた価値観が、ようやく追いついてきたわけだ。

確かに、会社としては素晴らしかった。

だが、“上にいる人間たちの思考”が古すぎた

俺が悪いわけじゃない。

ただ、、、

俺の生き方が“未来寄り”すぎただけだ。

子どもの頃からそうだった。

誰もやっていないおもちゃにいち早く挑戦し、ベイブレードも俺が地元で最初にハマり、一人で回し続けた。

誰に勧めても「そんなのつまらない」と相手にされなかったが、 俺が飽きてやめた頃、みんなが夢中になっていた。

誰も韓国ドラマを見ていない時代。

俺も一度は経験してみようと「冬のソナタ」を見ていた小学生の頃も、「おもしろいよ」とオススメしても誰も見ることはなかった。

中学生になった頃にNHKで放送された途端、世界中がブームになったんだ。

──時代の半歩先を歩く者は、いつだって孤独だ。

フォードを作ったヘンリー・フォード、トーマスエジソンもアインシュタインも。

職種や業種は関係ない。

未来に挑戦し、先に行こうとするものは孤独だ。

整備士としてのキャリアに未練がなかったわけじゃない。

むしろ、誰よりも本気で向き合っていた。

だからこそ、あのとき背中を向けた決断に、今でも誇りを持っている。

AD(コンテナ修理会社)時代|狂気と承認欲求の果てに

俺がAT自動車を退職した日の翌日。

俺は海上コンテナ修理をメイン事業とし、自動車整備から販売までサブ事業としているADで働き始めた。

AT時代に知り合ったドリフト仲間の親が経営していた会社だ。

一応、面接はした。

「うちは給料が安いけどいいのか?」

と聞かれただけで、あとは何も説明はなかった。

あとで知ったが、ドリフト仲間の父親は俺の親父の兄弟と仲がいいようで、過去にとある人の葬儀で、ドリフト仲間と出会っていた可能性が高いことからも意気投合していた。

だから、信頼はしていたのだが・・・

実は、“有給休暇が存在しない会社”だった。

さらに給料というのは、月単位で固定されているものだと思っていた俺に驚愕の事実があった

ADの給料は日給月給制。

体調を崩して休めば、翌月の給与は一気に減る。

月の手取りは16万円──休めばそこからさらに減ってしまう。

VELNIS
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年末年始の給料なんて、アルバイトの方が稼げるかもしれない。

VELNIS
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それで家族を養うのは、もはや“挑戦”だった。

これでどうやったら家族を養える?

そもそも、俺が無知だったんだ。

有給休暇が法律で定められている権利だということすら知らなかった。

有給休暇が「ある会社とない会社がある」程度の認識で、当時の俺は、“社会”に対してまだ無防備すぎた。

余談だが、有給休暇は常に勤務しているような人であれば、アルバイトもパートも労働時間の関係でつけなければいけない。

有給休暇の付与日数と時期
ブラック企業の『有給ない』は誤り|パート・アルバイトも取得できる
ブラック企業の『有給ない』は誤り|パート・アルバイトも取得できる

とはいえ、この現場には“特異な自由”があった。

自社のフォークリフトや作業車、協力会社の車両なども並行して整備していたが、基本は「溶接・切断・鈑金・交換」といった海運中にボコボコになってしまったコンテナの復元という重量級の作業が中心だった。

メイン業務はコンテナ修理。

修理済みのコンテナを入れ替えるまでの待機時間──

1〜2時間にもなるこの時間を他の作業員は車内で寝て過ごす。

だが俺は、その時間をパソコンを開く時間に変えた。

副業サラリーマンという肩書き

俺はADに勤めながらも、AT自動車時代に否定されたYouTubeの延長線で副業に切り替えることにした。

何をすればいいのかもわからない。

誰に聞けばいいのかもわからない。

そんな状態で、独学でネットで稼ぐ方法を真似してみた。

もちろん、怪しさはあったが、「ブログで稼ぐ」ということに関しては怪しいとは思わなかった。

なぜなら、当時アメブロが流行っていたからだ。

俺は他の作業員が昼寝を決め込む間に、パソコンを開き、ブログ記事を書く。

文章のスキルを上げるためにコピーライティングを勉強する。

ネット広告を扱えるように手続きをする。良いと思ったチラシや広告は集める。

ときには動画編集までしていた。

誰に評価されるわけでもない。むしろ、嫁には稼げるわけがないと思われていた。

だが、俺の中には静かな火が灯っていた。

ブラック企業にいながら、副業収入が跳ねた

ゲーム攻略サイト、商品アフィリ、雑記ブログ。

すべてを自分で構築し、最高月収は27万円に到達した。

  • ゲームサイト:月1〜20万円
  • 商品紹介:月2万円ほど
  • Google広告:最高9万円

普段は鉄を叩き、昼と待機中はキーボードを叩いていた。

俺はついに個人事業主として、開業届を出した。

だが──その成功は長くは続かなかった。

大手ゲームサイトが次々に参入し、個人サイトは次第に検索から姿を消していく。
会社員として勤めている以上、更新にも手が回らない。

サイト運営も会社員として働きながらでは限界があった。

そして、方向性を変えた。

ブログ運営で稼ぐのではなく、文章で稼いでみようと。

もともと1つのスキルを極めるのは好きな方だった。

瞬間月収660万円を手にした結果・・・

努力は報われ、出版社や起業家の方たちとの縁ができた。

  • セールスレター:累計20万部超えの著者で現在ロサンゼルスに住んでいる著名人、クアラルンプール在住でマルチリンガルの著名人(現在会社の時価総額1兆円超えを目指しているそうだ)2名のセールスレター、メール原稿を無料提供
  • フォレスト出版:1本5万円にて副業ビジネス初心者用のコンテンツを作成し納品
  • 小田和正似の神様の案件:1本50万円でセミナーコンテンツを作成し納品
  • その他ライター案件:1本5〜30万円で口コミからの紹介でLP(ランディングページ)等作成し納品
  • 自身のコミュニティ:13名参加で660万円達成

という実績を叩き出した。

このままブラックの典型的な企業の鏡のようなADを辞めて、起業家として新しい人生を歩んでいくんだと感じていたのだが…

金銭感覚がバグっていった。

今まで経験したことのないホテルに泊まり、美味しい物を食べ、税金分で支払うだろう金がけ残して、欲しい物を買い漁った。

さらに俺は、稼いだ金で1000万円以上をソシャゲに課金していた。

『ドラゴンボールZ ドッカンバトル』──

新キャラを即完凸してはSNSに上げ、“いいね”を集めて満足していた。

だがそれは、燃えるような承認欲求の塊だった。

金は残らなかった。

結果として、嫁に“金銭の管理権”を奪われ、中学2年から続けていた新聞配達の給料すら、自由に使えなくなった。

おこづかいはゼロ。

好きだった仕事道具も買えない。

稼いでいるのに、自由がない──

それが一番、俺の心を腐らせた。

そして、ビジネスは“つまらなくなった”。

ブログの更新は完全に止まり、サイトは朽ちていき、依頼主とのやり取りも面倒になって、新規の依頼を受けなくなった。

気づけば数年後、収益はゼロになっていた。

でもな、俺はこの出来事を「失敗」とは呼ばない。

この時期に手に入れたものは、“金”ではなく、“人生を自分でデザインする力”だった。

  • 文章で金を稼ぐ力
  • セールスの設計力
  • 人を動かすライティング
  • コンテンツを構築する視点
  • 媚びずに表現する覚悟

それらは今、VELNISという人格の根幹になっている。

コンテナ修理会社のADは、金をくれた会社じゃない。

人生を変える武器をくれた現場だった。

そして俺は、家族を養うために少なすぎる給料には耐えきれず、ADを後にした。

ブラック企業でも人間関係が良ければ耐えられる

余談にはなってしまうが、人間関係はマジで重要だ。

俺は溶接も学びたいと理由もあり、コンテナ修理会社のADに入った。

ドリフト仲間もいて、職場のコミュニケーションにおいては過去最高によかったと思っている。

俺は自分で言うのもなんだが、手際は良く、体で覚えるタイプだから、すぐに現場を指揮する立場になった。

材料の発注やスケジュール管理、協力企業との折衝(せっしょう)を含めて。

にも関わらず、給料が増えなかった。

むしろ勤続年数が増えたのにも関わらず、基本給や交通費が消えていた。

人間関係もよく、仕事も楽しかった。

エギでタコが釣れることを教えてもらって毎日何匹も釣ったりして楽しかった。

残りたい気持ちはあったが、さすがに家族を養えないから辞めるしかなかった。

ブラックではあったものの、人間関係が良ければ、耐えられるもんだなと感じた時代だ。
(この経験は4社目で痛感することになる。)

次はまた整備士メインでやるか!

と思い、選んだ企業が初めての町工場のWGだ。

社会人初がディーラー勤めだったこともあり、これもまたワンマン社長との壮絶な闘いが待ち受けていた。

WG(民間整備工場)時代|整備士として再び!

AD(コンテナ修理会社|自動車整備事業)を辞めた俺は、「今度こそ、整備士として納得のいく仕事をしたい」と思った。

そんな時に出会ったのが、小さな民間整備工場・WGだった。

面接ではこう言われた。

「うちは必要なものなんでも揃ってるし、工具がなくて困ったことは一度もないよ」

「うちはヤル気がある人にはその分、給料という形で還元するし、みんな昼休憩もご飯食べてタバコ1本吸ったら仕事に戻ってる」

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──その言葉を、俺は信じた。

だが、入社して俺が目にしたのは、、、

壊れたラチェット、欠けたメガネ、安価なストレート製の工具。

トラック整備や重整備に必要な道具は一切なく、「困ったことがない」というのは、オイル交換レベルの作業しかしてこなかった証明にすぎなかった。

商用車も多く、現場に使われる車たちのボルトは錆び、ナットは固着。

それに安物工具で挑めば、工具は潰れ、ボルトの頭は舐める。

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「工具に敬意を払えない者に、機械は心を開かない。」

──整備士とは、ただ直す者じゃない。

命を預かる仕事に、雑さや無頓着が許されるはずがない。

工具は“相棒”だ。

扱い方一つで、信用も結果も変わる。

だから俺は、そういう奴を整備士とは認めない。

だったら、俺が“揃えてやる”──30万円の初期投資

この工場では、商用車を扱うことが多く、トラックの整備が多い。

当然かのようにボルトは錆び、ナットは固着、やせ細ってネジ山すら消えている。

そんな相手に、壊れたラチェットや安メガネじゃ勝てるはずがない。

コンテナ修理で培った“錆との戦い”の技術があったから、なんとか毎回外すことはできたが──効率は悪すぎた。

ドリルの刃はすべて折れているから修正もした。

コンテナ修理時代にサビと戦ってよく研いでいたからな。

それに、当時は”あり得ないだろ”と思い記念に写真をスマホで撮ったものが1つある。

14mmのロングメガネで固く締まっていたボルトを緩める際に『工具が』舐めた。

ストレートの工具だったからだ。

工具が負けるっておかしいだろ。

ナナメにかかっていたわけじゃない。

だから、俺は自宅から学生時代に購入し、愛車のS15シルビアを整備する時に使っていた”スナップオンの工具“を持参した。

どうなったかって?

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この経験から、もう二度と安価な工具は使わないと心に決めた。

俺は、学生時代に使っていたスナップオンの工具に、さらに30万円分を追加購入した。

このどうしようもない会社のために、お客さんの車のために新調したんだ。

嫁には黙っていた。

金銭管理もできない、お小遣いもゼロの俺が新しく工具を買えるわけがないからな。

案の定、バレたときは修羅場だったが──

必要な道具を持たずに、誇りある整備なんてできない。

「なんでも揃ってるって言ったのは、嘘じゃねぇか」

そう思いながらも、俺はただ、整備士として普通に“仕事がしたかった”だけなんだ。

工具も、汗も、技術も捧げた──でも、給料は変わらなかった

民間整備工場WGでは、間違いなく俺が現場の中心だった。

トラックの荷台を新たに作ってほしいと、お客さんから名指しで依頼されることもあった。

溶接の技術には定評があり、自社の鈑金担当よりも上手く、俺の手を頼る場面は多かった。

専用工具(SST)がなければ、俺は廃材から道具を自作して対応した。

スマホを漁ったが、見つかったのはこんな下の下の自作工具だけだった。

作業に必要なものがなければ、自分で考え、自分で作る。

それが当たり前のようになっていた。

さらに俺は、整備だけで終わる人間ではなかった。

個人事業で培ってきたコピーライティングやマーケティングの知識を会社に還元し、販促の導線やホームページの改善、経営方針の修正までやった。

その結果、、、

会社の年商は1億3000万円から3億8000万円にまで伸びた。

技術でも売上でも、誰よりも会社に貢献していた自信がある。

小さかった整備工場を大きくし、認証を取る手続きまでした。

──だが、それでも俺の給料は平均的な賃金しか上がらなかった。

30秒…長くても2分

頑張ったら頑張った分だけ給料で還元する?

嘘をつくんじゃない。

俺は昼休憩、おにぎり一個食べて、すぐに仕事に取り掛かる。

実際、2分もかかっていない。

30秒で俺の昼休憩は終わり

評価はない。

周りはしっかりと昼休憩も取っている。ご飯を食べるだけで30分〜40分。

そこからタバコを吸ってしっかり1時間取っているじゃないか。

VELNIS
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整備士と関係ない仕事をしても歩合も出ない。

昼休憩を削っても還元されない。残業をつけてくれた方がよっぽど稼げる。

ただ、当たり前のように“良いように使われていただけ”だった。

入社時の条件やインディードに載っていた条件とは大きく異なる。

報酬の額面は変わらず、俺の心の中にあるものだけが、静かにすり減っていった。

残業代未払い、有給休暇リセット、そして『隠蔽…』

俺は耐えていたわけじゃない。

動いていた。戦っていた。

毎月60〜80時間の残業代未払い、有給休暇の不正リセット、割増賃金の不払い──

社長に直接、何度も指摘したが改善されなかった。

俺は自分を筆頭に、他2人を含めて労働基準監督署に通報した。

そしてついに、労基が会社に監査しにきた。

だが──社長は、タイムカードを隠した。

タイムカードは、確かにあった。

俺はタイムカードの印刷も労基に提出している。

だが、労働基準監督署が入った途端に、それは姿を消した。

──証拠隠滅。

それがこの会社の“真の整備技術”だった。

俺たちが訴えたのは、未払いの残業代だった。

深夜2時まで働いた記録、ほぼ毎日4時間以上の残業。

結果として導入されたのは、「みなし残業制度」という都合のいい帳尻合わせ。

普通なら、みなし残業を導入すれば**今の給与に“追加”されるはずだ。

ところが、ここでは逆だった。

みなし残業をつけるという名目で、“現在の給与の中にみなし残業代を含める”という悪質極まりない手段をとった。

つまり──

“基本給が下がる”と言うこと。

つまり、こうだ:

それまで月給30万円だった俺の給料は、表面上変わらず30万円のまま。
だがその内訳が、「基本給25万円+みなし残業5万円」とされたことで、実質的に基本給は減額された。

──この内訳が何を意味するか?

答えは単純。

ボーナスが減る。つまり、年収が減る。

そして社長は労基に対してこう言った。

「うちは元々、給料にみなし残業代が含まれてるんで!」

VELNIS
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当然、もともとの給与明細に「みなし残業代」の記載はなかった。

もちろん、俺が入社を決めた求人サイト「インディードの募集要項」にも記載はない。

さらに、そんな説明も受けてなければ、雇用契約もしていない。

労基は「記載がなければダメです」と言ったが、社長の嘘に、それ以上手が出せなかったんだ。

30万円だった基本給は、25万円の基本給+みなし残業20時間分5万円に“再構築”となる。

実際に変更されたクソ給与明細を見せてやる。

もう一度いうが、数字だけ見れば変わっていない。

だが、ボーナスは基本給ベースで計算される。

みなし残業という名の帳尻合わせによって、俺の年収は確実に下がった。

しかもその制度導入で、「もう労基には改善提案を出している」と社長は“指導済みの顔”をしていた。

それだけじゃない。

俺は、さらに声を上げた。

違法改造、車検後戻し、エアコンガス大気放出…

現場では認証が下りていない車両の分解整備が行われていた。

違法改造車も純正に戻すのが目的ではなく、違法な状態にすることが目的で扱っていた。

車検に通った後の車両もまた、違法な状態に戻していた。

エアコンガスは回収することもなく大気中に放出していた。

何度、やりたくない、こんなこと出来ないと言っても、給料をもらうために仕方なく指示にしたがっていた。

──それらすべてを、愛知運輸支局と警察署に通報した。

その結果、こうなった。

給料、2万円の減給

理由もなく、説明もなく、ある日突然引かれていた。

後から労働基準法についてかなり勉強して知ったが、これは労働基準法で認められていない法定外の減給だった。

VELNIS
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というのがある。

減給についてはまた別の記事で書くが、当時の俺は、まだその知識を持っていなかったんだ。

感覚的には「おかしい」と思っても、「どうにもできない」が現実だった。

受け入れるしかないと思っていたんだ。

裏切り発覚、俺は人を信じることをやめた

俺は突然の減給だと思っていた。

がしかし、月に一度の個人面談で言われた。

「VELNISが労基入れたのわかってるから」と。

そう、、、他の2人が裏切って社長に話したんだ。

俺は「みんなで会社を良くしていこう!」と団結して、俺が名前を労働基準監督署に出したのにも関わらず、裏切られた。

残業を無くしていこう!と言って、残業もかなり減った。

昼休憩を取ろうぜ!ということで、昼休憩も最初は「休憩するようになったの?」と顔を真っ赤にして怒っていたが、当然だろという顔して取っているうちに何も言わなくなった。

そして、会社の汚れ切ったルールを大きく変えるには、俺一人の力ではどうにもならないから、団結したんだ。

労働基準監督署は匿名でやってほしいと言うと、「やるにはやる」けどいつになるかわからないと答える。

名前を出して、書類提出してくれたらすぐに動けるという。

だから俺が先頭に立って手続きをした。

労働基準監督署の人も俺が言ったことをバレないように動いてくれたのに、それが水の泡になった出来事だった。

もう、誰も信じられない。

民間整備工場WGでは俺の居場所はないと思った。

貢献する価値もないと思えてきた。

見てくれ重視の非効率な工場

新設した工場はかなり大きかった。

新設する時にも俺に排水や電気回り、工場の設備や配置などを参考に作ると言っていたが、何一つ取り入れられていなかった。

フタを開けてみれば、劣悪な環境の整備工場だった。

カッコいいからと外壁は黒で塗り固められ、湿度も高く気温はゆうに60度を超える

それでも空調設備の導入はなかった。

スポットクーラーもなく、あるのは壊れかけの扇風機。

いや、熱風機だ。

エアコンの聞いた部屋から工場にきて「大丈夫っしょ」と放ち、網戸すらケチったことで「蚊が入るから窓を開けるな」で片付けられる世界。

工具が錆びたことはこれまでに一度もなかったが、この工場ではスナップオンで購入した新品のプライヤーが翌朝には錆びていた。

どれだけ湿度が高いのかわかるだろう。

俺の大切な工具たちが泣いていた…

特殊能力を持つ整備士の末路

だが、そんな中でも──俺はこの環境で“結果”を出し続けていた。

それなのに、俺をそんなふうに扱うのか。

あらためて言うが、俺は整備士でありながら、集客・販促・コピーライター・マーケターとしての顔も持っていた。

ホームページのキャッチコピー、検索エンジンに上位表示させるSEO対策、LINE公式アカウントの導線設計、Googleマップの口コミ誘導、Webからの問合せLP、Instagramでのブランディング。

──すべて俺がゼロから構築した。

結果、どうなったか?

この会社の年商は、たった5年弱で1億3000万円 → 3億8000万円へと跳ね上がった。

5年間。

誰よりも会社を動かし、誰よりも現場を守り、誰よりも正義のために声を上げた。

でも──

俺が最後に得たのは、“報復”“無力感”だった。

俺は辞めた。

L(高級輸入車)時代|天国の皮を被った地獄

誰もが欲しいと思い、誰もが触ってみたいと思うだろう。

普通に働いているだけでは絶対に買うことができない高級車だ。

走る家と言われるのも頷ける。

俺はスーパーカーを扱っている高級輸入車ディーラーに転職した。

インディードから応募し、面接を経て5ヶ月後に入社した。民間整備工場WGで何をされるかわからなかったから、待てと言われた期間は在籍していたからだ。

俺はようやく、WGを抜け出し、給料も大幅にアップ、これから最高の条件で年収も上がっていくはず。

だったのだが…

入社7日目──笑顔を失った

スーパーカーディーラー「L」──

多くの整備士にとって、それは憧れだったはずだ。

労働基準法は守られている。

エアコン完備で、設備も最新。

必要な道具はすべて揃っている。

給料は整備士の平均を大きく上回り、福利厚生も休日が労働基準法の下限という以外は申し分ない。

──条件だけを見れば、まさに“整備士の理想郷”だ。

俺も、そう思っていた。

最初のうちは──な。

だが、入社7日目の出来事が、すべてを壊した。

現場でニコニコしていた俺に、上司のY下が突然怒鳴る。

「てめぇ、何ニヤニヤしてんだ!」

そして、腹を殴られた。

一瞬、何が起きたのか理解できなかった。

心がフリーズした。

もちろん、やり返すことはできた。

やり返せば、彼の肋骨は折れていただろう。

でも、俺は耐えた。なぜなら──

俺には守るべき家族がいる。

嫁にも常々言われていた。

「考えて行動して。あんたが本気を出したらどうなるか分かってるでしょ」と。

痛み? 感じなかったさ。

極真空手初段、合気道初段で入賞経験もある俺にとって、その程度の拳は羽のようなもの。

でもな、痛むのは“身体”じゃなく、“心”だった。

7日目の不信感

通報することも考えた。

だが、入れ替わったばかりのマネージャーには「通報は待ってくれ」と言われ、待った。

「事実確認をさせてくれ」と言ったから。

信じてみた。

だが結果は──“沈黙”。

この職場に“正義”はなかった。

俺も正直、痛くもなかったし“めんどくさい”と通報を諦めた。

その日を境に、俺の笑顔は死んだ。

無駄な言葉は捨てた。

誰にも感情を見せない。

ただ、作業を淡々とこなすロボットのように生きた

VELNIS
VELNIS

この日、入社早々だったが、転職を考え転職サイトに複数登録した。

“俺のせい”にされる日常──擦り付けと嘘の連鎖

それから、地獄のような日々が始まった。

試用期間中に一緒に作業することになった先輩は1つ年上ではあるが、入社時期は半年しか変わらない。

作業は非効率で外さなくてもいい部品を外したり、同時にできる作業があっても1つずつしかやらない。

「効率悪すぎやしないか?」と一瞬で思える人だった。

初日から冷却水をfullより少し上まで入れるよう教えられた。

現れた古参のクソガキ

VELNIS
VELNIS

休日明けの朝イチ、出勤前に俺はある男に呼び出された。

古参の立場を利用し、誰に対しても命令口調、そして人格否定。

Y内に言われて冷却水をタンクのFullより少し上に入れた翌日だ。

「なんでこんなことしてんの?誰に言われたの?」と古参で生意気な27歳のガキに責められた。

「なんでfullより上なの? なんの為にタンクにライン引いてあるの」と。

そんな常識を俺が知らないかのようにガキは言ってくる。

俺は静かに答えた。

「Y内さんに教わりました」

そう答えると、ちょうど、出勤してきたY内、本人は「言ってない」と言い出す。

それを27歳のガキは俺に「Y内さんやってないって言ってるけど、どういうこと?」と突っかかってくる。

ムカつく野郎だ。

俺がガキの前でY内を問い詰める。

「Y内さん言いましたよね? 初日に冷却水はFullより少し入れないとうるさく言われるからって!」

と、キレ気味に言った。

ようやくY内は「言ったかも…しれないね」とモゴモゴ言うだけ。

その後、俺はすぐに解放されたが、O川からの謝罪の言葉は一言もない。

Y内はO川から2時間の説教と言う名の罵倒を受けていた。

その後も、俺は27歳のクソガキに何度もY内に教えられたことを実行して怒られ、呆れられ、最後は「もういいよ」と“俺だけが悪い”形で話を終わらされた。

俺が“経験”と“効率”で導いた成果に、彼は疑念しか向けてこなかった。

言われた通りにやっても、今度は「そんな教え方してないって言ってる」と跳ね除ける。

「どっちが本当のこと言ってんのか知らないけどさー」

と、なぜか俺も嘘をついているように言われる始末だ。

こういうことが、毎日あった。

潰れたボルトと潰れたプライド

ある日、Y内が鬱になり連続欠勤が続いた。

VELNIS
VELNIS

作業途中で放置されていた車両を俺が引き継ぐことになる。

Y内が触った車は引き継ぎたくはなかった。

俺はY内が心底信用できないやつだと思っている。

引き継いだ車両はアンダーカバーは取付済みだという話だったが、念の為確認することにした。

あとで“俺のせい”にされないようにな。

案の定、引き継いだ車両のアンダーカバーのボルトは飛び出したまま食い込んでいる。

俺が外そうとしたら、受け側のリベットごと空転していた。

だから俺はすぐに報告したのだが、、、

O川は言う。「VELNISさんが潰したんでしょ?」

“最初からだった”という証拠なんて、ここでは無意味。

事実より、立場と声の大きさが支配する空間──それが、高級輸入車ディーラー「L」の整備工場だった。

しかも、電動工具もエアツールも使用制限。

「ボルト壊すやつがいるからダメ」──じゃあ、お前らはなんなんだ?

やっても怒られ、やらなくても怒られ、間違っても謝られない。

プライドだけが、地面に転がっていた。

Y内が潰したのは明らかだ。

俺は自分のせいにされることに疲れていた。

VELNIS
VELNIS

と言おうと思った。

口が開いたが、グチグチ言われるのが面倒で、心に留めた。

エアツールは「お前には使わせない」

電動工具は「過去にボルト折るやつがいるから禁止」

なのに、あいつらは自分たちで普通に使っている。

言い返せば、人格を否定される。

黙っていれば、嘘を押し付けられる。

そんな毎日だった。

俺は整備歴診断経験も27歳のクソガキより、はるかに上だ。

専用の診断機のフローチャート通りにやって、答えをカンニング。

答えが出せなければ、すぐにサポートセンターに問い合わせて、本国に確認。

そんな自分のスキルを使えないようなやつに俺はグチグチ言われている。

27歳のクソガキも古株とはいえ、も4年半しか『L』ディーラーにいない。

俺は面接のときにこう聞かされていた。

「その辺の会社と違って、うちの会社は年功序列ではなく、実力主義です。」

とな。

だが、実際違う。

VELNIS
VELNIS

1日5回以上の人格否定

理不尽は、怒鳴られた日だけじゃ終わらなかった。

むしろ、あの日からが本番だった。

作業が早ければ、

「VELNISさん、それちゃんとやったの?」

とクソガキに言われ、

ただ日付を間違えただけで

「なんでこの日付なの?なんで?ねぇ、なんで?なんでなの?ねぇ?教えて、なんで?ね?」

と、しつこい子供のように連呼してくる。

言葉は常に、俺の“人格”に向けられていた。

やることなすことが疑われる。

俺は効率がいい。

俺のスピードでやれば「早すぎる」「ちゃんとやってない」と難癖をつけられる。

作業が早く終わってしまうから時間を合わせると「サボってる」と責められる。

VELNIS
VELNIS

この会社では、能力は妬まれる対象だった。

Y内は二人を訴えるために、行動に出ていた。

それでも、俺は訴えなかった。

上司に言えば、会社に伝えれば、動くことはできた。

それでも──黙って耐えた。

それは別に、優しさじゃない。

ただ、俺の中で「訴える」という選択肢がもう、意味を持っていなかったんだ。

誰に何を伝えたって、この職場には“聞く耳”がない。

そして、クソガキともう一人、俺を苦しめる奴がいた

50代の老害による押し付け

O川と同時期に入り、同じく古参のK口だ。

こいつは入社してから、研修のための動画や資料をみなければいけない俺に、

「通勤中にやればいいじゃん、俺はそうしてたけど」

と言ってきた。

自転車に乗りながらスマホは見れないと言うと、

「じゃあ家に帰ってからやってください」

と言ってきたから、それ以上言うと、訴えますよ?と言ってやった。

すると、50代のK口はこの日から俺には甘めになった。

まあ、このおっさんにはいいところも少しはあった。

K口は実力は認めてくれるやつだったから、27歳のクソガキよりはまだマシだった。

50代の老害、27歳の敬語も使えないガキ。

この2人だけが、「L」ディーラーでは整備主任者だった。

ここでは整備主任者が作業完了後の完成検査をするルールになっていた。

だから、俺を含め、他の整備士たちは作業が完了したら、終わったことを報告して、完成検査をお願いする必要がある。

作業完了前にも、アンダーカバーを外したら、下廻りのチェックをお願いする。

アンダーカバーをつけたら、アンダーカバーのチェックをお願いする。

別にこの作業自体に文句はない。二重にチェックするんだから、いいことだ。

整備主任者でも工場長でもない──ペーペーとしての地獄

俺はこれまで、どの職場でも整備主任者を任されてきた。

工場長も整備部長もやってきた。

整備士としてのプライドも、実績もある。

だが、ここでは“最後に入社した=新人”

整備主任者にもならず、工場長でもなく、ただの“パシリ”として扱われた。

経験も能力も、ここでは“経歴”として意味をなさない。

むしろ、“邪魔な過去”として煙たがられた。

整備主任者の肩書きを持つ2人は、どちらに頼んでもすぐに動かない。

O川に言えば、「K口さんに言って」と投げ返す。

K口に頼めば、「今忙しい!O川さんに言って!」

と言い合い、たらい回しだ。

──狂ってるとしか言いようがなかった。

完成検査はその2人しかできないルールなのにも関わらず、お互いすぐには動かない。

1時間くらいまたされることもある。

その間、次の作業に進めない。1台完成させてから次の車両を触るというルールがあったからだ。

それでも、「なんでそんなに時間かかってんの?」と逆に責めてくる。

VELNIS
VELNIS

それでも現場は回さなきゃいけない。

そんな事で無駄に時間を取られたくはない。

だから、俺は黙って動いた。

喋るたびに心が削れていくから、黙っていたほうがマシだったというのもある。

家も壊れ、心も壊れた──俺は沈黙した

会社で心が削られていく中、家庭でも、静かに崩壊が始まっていた。

「会社を辞めたい」──

そう伝えた俺に、嫁は冷たく言い放った。

「理不尽なんて、どこにでもあるでしょ」
「ここより給料のいい場所なんてない」
「最後の転職って言ったよね?」

何を言っても、“俺が弱い”というレッテルを貼られるだけだった。

殴られたことも話した。罵倒されたことも話した。

でも彼女は、“共感”のかけらも見せてくれなかった。

それでも、俺は怒らなかった。
自分が悪くなくても、謝った。
家族を壊したくなかった。

ただ、それだけだった。

だが、俺はこんな会社から抜け出すために、過去最短で転職活動をスタートした。

整備士を辞めるという決断──「L」の後に待っていた現実

俺が転職サイトに登録したのは、「L」に入社してから7日目の殴られた夜。

あの腹パンを受けた直後だった。

だが、家族に怒られるのが怖くて、すぐには動けなかった。

転職活動、開始──静かなる「逃走計画」

本格的に転職を始めたのは2024年2月。

doda、dodaX、ビズリーチ、エンゲージ、インディード、リクナビNEXT、リクルートエージェント、メカジョブ、整備士JOBS、レソリューション……

あらゆる媒体に“VELNIS”の名を刻んだ。

転職サイト、エージェント、口コミサイトに登録した数は20を超える。

もう、整備士にこだわるつもりはなかった。

とにかく、「Lディーラー」よりマシな場所。

労働基準法を守り、給料が生活に足る企業──それだけが条件だった。

最初に目をつけたのは、港湾関連の優良企業。

3大汽船グループの100%出資子会社。

コンテナ修理をやっていただけに少し港湾には詳しい。

エンゲージで募集を見つけ、即応募。

電話では感触よく、決まったと確信。

しかし、まさかの書類選考落ち。

──初めてだった。

書類で落とされたことも、面接で断られたこともなかった俺が、門前払いを食らったのだ。

「Lディーラーより高待遇で、法令遵守」──理想の条件を求めて

条件は明確だった。

  • 高級外車ディーラー「L」と同等以上の給与
  • 労働基準法を守っている
  • 公共交通機関で乗り換えなし
  • 家から25分圏内

だが、応募するたびに”転職回数の多さ”で落とされた。

俺は決して「飽きっぽい」わけでも「根性がない」わけでもない。

ただ、“嘘が許せない”“理不尽に黙っていられない”だけなのに。

「整備士として最強」が足かせになる皮肉

あまりにも通らない現実に、俺は“異業種”にも目を向けた。

鋼材関連、プレス加工、大手工場──

「もう何でもいい、心が壊れる前に抜けたい」そう思っていた。

そんな中で、ようやく見つけた希望の光──

大手ガスグループの整備工場。

dodaで見つけ、即応募。

doda担当からすぐに連絡があり、先方も募集を一時止めているとのこと。

求人を出して一番目に俺が応募したそうだ。

書類は通過し、面接も突破。

かなりの好感触。

作業スキルを網羅したシートを手渡し高評価。

ついに見つけた。

家から電車1本、25分圏内、大手ガス会社の整備工場で定年まで働けそうだ。

残業は100%ゼロ、定着率9割、福利厚生も申し分なし。

面接では「ここまでできる人は見たことがない」とまで言われた。

──だが、結果は不採用。

理由は、「長期就労への懸念」

なぜ?

俺は、熱意も、経験も、全力で伝えた。

職務経歴書と別紙で“何ができるか”も明確に提示した。

doda担当者からパワハラがあって転職活動していることは伏せたほうがいいと言われ伏せた。

パワハラの過去など、ネガティブな要素は一切語っていない。

それでも、企業からは「長期就労に対する不安がある」という理由で、断られた。

なぜ懸念されたのか、その理由までは、ついに最後まで教えてもらえなかった。

ただ一つ思い当たるとすれば──

ディーラー「L」に入社して、まだ1年も経っていない段階で転職活動をしていたこと。

それが、彼らには「すぐ辞める人間」と映ったのかもしれない。

企業には電話もしたが、応答はなかった。

完全に“切られた”のだと悟った。

dodaの担当者に確認すると、「判断は覆らないと思います」と、事務的な回答だけが返ってきた。

doda担当者の女性も態度も、その日を境に冷たくなった。

──まるで、「成約できない案件にはもう興味はない」とでも言いたげに。

俺の中では正直に、パワハラで殴られた件も話、転職活動していると言ったほうが、すぐに辞める理由として正当だと先方にわかると思っていたのだが・・・

ここからdodaの担当者の言うことは絶対に聞かないと決めた。

自分のやり方でやってやると。

転職エージェントにすら裏切られる

書類通過までの対応は丁寧だったdodaの担当者も、不採用が決まった瞬間に冷たくなった。

こいつら、“契約成立=ノルマ達成”がすべてなのか──そう思った。

思い返してみれば「L」に転職する時もそうだった。

整備士JOBS(クイック)も同様。

ディーラー「L」の悪評を「知らない」と言っていたが、俺が入社してみたら“地獄の現場”だった。

エン転職の口コミの信憑性を肌で理解した。

そもそも、俺は3社目のブラック企業である民間整備工場WGに入る前、一度「L」に行こうと思っていたことがある。

その時、ダイバージェンスという整備士専門の転職エージェントを使っていたが、

「VELNISさん、『L』はマジでヤバいんで辞めたほうがいいです。人の出入りが激しいですし、上司がかなり特殊な人で、連絡も遅いですし。それでも行きたいというのなら話してみますが・・・」

と言われていた。

ダイバージェンスの担当者は正直に言ってくれていた。

なのに、整備士JOBSの担当者はどうだ。

悪い話を聞いたことがないだと?

俺が面接してから入社するまでに5ヶ月間で4人も辞めていたじゃないか。

さらに俺が入社してから2人が辞め、最後に俺が辞めた。

たったの1年で7人も辞めているのに、ガンとなる人間を野放しにしておくとは、「L」のブランドが泣いてしまう。

話は逸れてしまってすまない。

結局、クイックが運営する整備士JOBSの担当者も「L」に内定が決まったあとは音信不通になったり、返事が返ってくるのが2週間かかったりしていた。

内定が出て入社が決まれば、マージンがもらえることはほぼ確定だからな。

もう限界だった──壊れる前に抜け出すための“足掻き”

転職活動がうまくいかず、心身ともに追い詰められていた。

──このままディーラー「L」に居続けたら、いつか“壊れる”と、身体が本能で危険信号を発していた。

もう、俺はヤケクソだった。

あまり評判の良くない全国展開の中古車販売チェーン──

「G社」「N社」にも、ついに応募した。

「とにかく、ここから抜け出さないと、俺が死ぬ。心が先に死んでしまう。」

そんな焦りと、闇の中で探るような希望だけが、俺を動かしていた。

──でも、やっぱりな。

評判どおりだった。

どちらも「みなし残業制度」が導入されていたが、その実態について確認してみると、すぐに引っかかる部分が見えてきた。

ブラックですが、納得してくれませんか?

G社にみなし残業の実態を尋ねると、「納得していただけるなら選考に進みます」との回答。

その言葉で、俺は応募を取り下げた。

納得なんて、できるわけがなかったからだ。

N社は、応募から面接の段階では誠実そうに見えた。

みなし残業の計算が求人票の情報では合わないことを伝えると、「正確に伝えるようにしています」と言ってくれた。

だが、いざ条件提示をされてみると──

提示された給与に対する“みなし残業の計算”が合わない。

しかも、勤務地も事前に聞いていた内容と異なっていた。

「N社」については実際にラインでやり取りした時の画像を以下の記事で公開している。

もし、「みなし残業」について気になるなら見てくれ。

みなし残業を計算したら合わなかった話
【自動車整備士専用】ブラック企業の共通点27個|面接時の特徴から見抜く術
【自動車整備士専用】ブラック企業の共通点27個|面接時の特徴から見抜く術

──不信感が、止まらなかった。

「納得していただけたら、内定書をお送りします。私どもとしてはぜひとも一緒に働きたい」

と。

VELNIS
VELNIS

何が、納得しろだ。

俺は、その内定を辞退した。

もはや、どこに行っても“同じ地獄”なんじゃないか──

そんな諦めが、心の奥に広がりはじめていた。

それでも、不思議と“動くこと”だけはやめられなかった。

動きを止めた瞬間、俺の人生が終わる気がしてたから。

異業種|未知の世界への誘いと、家庭の反発

新たな転職サイト「ジョブメドレー」で、俺はある求人に目を留めた。

転職サイトに登録することに麻痺していた俺は、職種なんておかまいなしに手当たり次第、登録しては求める求人に出会うチャンスを広げていった。

そして、1つのチャンスに巡り合った。

──「就労継続支援B型事業所 PU」

家から近く、通勤は楽。

そして何より、俺がこれまで積み上げてきたスキルを、まったく新しい形で活かせるかもしれない職場だった。

給料は、正直「L」とは比べ物にならないほど低かった。

最悪、コンテナ修理会社のAD時代の給料と同等になる可能性もある。

だが、体力はほとんど使わない。

副業との両立も可能。

年齢的にも体力の衰えを感じていた。

この職場でなら、俺は肉体的にも精神的にも「壊れずに生きていける」と直感した。

異業種転職を提案した途端、嫁が発狂した

──ところが、この話を妻に切り出した瞬間、嵐が吹き荒れた。

「は?何それ。B型支援?怪しすぎるでしょ」
「今まで買ってきた工具は?国家一級整備士の資格はどうするの?」
「整備士じゃないの?」

妻は怒り狂った。

まるで、抑えていた感情が一気に爆発したかのように。

でもな、俺は知っていたんだ。

彼女は昔から、“自分が知らないもの=怪しい”と決めつける人間だった。

コンテナ修理会社のADにいた時にビジネスをしようとした時もそうだった。

「稼げるわけないじゃん」
「そんなうまい話あるわけない」
「騙されてるだけ」

──俺は違う。

今回も嫁の考え方は間違っていると思っている。

俺はPUのホームページを何度も読み込んだ。

B型支援とは何かも、自分の目で確かめた。

口コミも調べた。人の声に耳を傾けた。

そして、自分の中で「行ってみたい」と思った。

それでも──家庭は、俺の背中を押してはくれなかった。

嫁は言う。

「楽したいだけなんでしょ!そんなの働きたくない人にしか見えん!」

俺は社会人になって、転職する時は必ず翌日から次の会社に出ていた。

つまり、給料を一度でも切ったことはない。

それでも、そんなことを言うのかと、俺は悲しくなった。

このとき、俺は改めて痛感した。

「知らない世界を恐れる人間」と、「知らないからこそ飛び込む人間」は、根本的に相容れないと。

けれど、、、

俺はもう“誰かの価値観”で人生を決めたくなかった。

次のステージは、俺の人生の主導権を俺が握るためのものだったから。

会社の前まで行くが、、、戻る日々

このあたりから俺は会社にいけなくなってくる。

会社では心を閉ざし、家庭では理解も得られず罵倒される毎日が続く。

会社の前までは行くが、色々考えると中に入れなくなってしまった。

ガキに言い返すのも会社で反論するのも嫁は否定する。

嫁に怒られる方がよっぽど怖いんだ。

だから俺は会社に行くのを辞め、1日中本屋で本を読んでいたり、宛もなく自転車で遠くまで行っては、会社の終わる時間頃になると自宅へ帰るようにしていた。

嫁の顔色を伺うのが日常的になる

俺はここに行ってもいいか?と聞いた。

が、嫁は黙ったまま。

洗濯物は自分のだけ別にし、俺の作った飯は「いらない」と捨てる。

食器は洗わない。言葉も交わさない。

子どもは毎日泣いた。

「ママ、頭おかしいんじゃない!?」

長女は言う。

「ママが出ていけ!」

──泣きながら次女が言う。

幼い口から飛び出したその言葉に、俺は目をそらせなかった。

俺もおかしいと思ってはいる。でも俺はいつも言われっぱなしで怒ることもない。

それでも、俺はまだ“好き”だった。

どれだけ壊れても、どれだけ傷ついても、俺の中には彼女への情が残っていた。

俺は子供のためにも嫁が出て行こうとするのを諭した。

俺の家庭では、俺がほとんど仕事で家にいない。

嫁は家にいる時間が長い。

家事も育児も放棄しているが、親がいる安心感は与えられるだろうと考えた。

だが、嫁は俺とは一言も話さない。

嫁は子供のことも無視するようになり、家で顔を合わさないように動くようになった。

その翌日の朝、新聞配達から帰ると置き手紙があった。

【可燃ごみ月曜火曜、資源ごみ木曜】とだけ。

資源ごみを捨てる場所は知らない。

聞いても見ればわかるでしょ!と一言。

それでも、外に出したことはないからわからないから教えてくれないかな?と優しく聞いたのだが、「家から出て周りが何してるかみたらわかるでしょ!」とまで言われた。

わかるわけがない。

結婚してから、洗濯も掃除も、育児もご飯の用意も食器洗いも、風呂掃除もトイレ掃除もやってきたが、マイホームになってから資源ごみは出したことがなかったからだ。

結局、わからず、翌週まで持ち越し、また静かに置かれていたものがある。

役所が発行するごみ収集のパンフレットだ。

そこにも、どこが収集場所なのか記載がなかった。

俺は不機嫌で無視して黙り込む嫁に回収場所を教えてくれと頼んだ。

が、キレながら「家の裏の路地!」とだけ言い放たれた。

逆DVとモラハラの兆し

──次第に、彼女は俺に手を上げるようになった。

俺はいつも冷静に話す。

だが、嫁は違う。

すぐに声を荒げる。8つ年上だからなのか、一人っ子で我慢を知らないからなのか。

偏見と思われても仕方がないが、俺の周りは同じような感じだ。

俺を叩く嫁に対して、咄嗟に口にしてしまった。

「それ、DVじゃん…」

俺が放った一言でブチギレた。

「はぁ? DVって言うなら、警察呼べば? 呼んでみろよ、あぁ? 呼べよ! 警察! 早く呼べ!」

そう怒鳴る彼女を、俺はただ黙って見つめるしかなかった。

俺はこの日、家を出ることにした。

俺は子どもを守るために家を出た

家を出た日のことは、今でも鮮明に覚えている。

あの日、俺はただ、子どもを守りたかった。

「ママ、もう嫌だ」「ママ出ていって」──

泣きながら訴える我が子の姿に、俺はもう限界だった。

自分が出ていくことで、家が落ち着くならそれでいい。

そう思って、俺は黙って荷物をまとめ、実家へ戻った。

けれど──

そこからが、本当の地獄の始まりだった。

一人になって、静かな部屋にいると、頭の中に“過去の言葉”が何度もリピートされる。

「警察呼べよ」
「全部お前のせいだろ」
「理不尽なんてどこにでもある」

──心が崩れていく音が、はっきりと聞こえた。

俺はずっと「嫁は病気だから不安定なんだ」と思っていた。

甲状腺機能低下症。
シェーグレン症候群。
メニエール病。

ホルモンの乱れが感情に影響しているんだ──そう信じて、理解しようと努めてきた。

でも、今回の件は何かが違った。

嫁が精神的におかしいと思った

“病気”では説明がつかない、異様な執着、支配、威圧、人格否定。

俺はスマホで

「夫 殴られる 妻」
「嫁 暴言 性格」

──そんな言葉で検索し続けた。

たどり着いたのは、「モラハラ」「自己愛性パーソナリティ障害」といったキーワード。

読むたびに、彼女の言動と一致していく。

そして、俺の心の底から、ある感情が湧き上がってきた。

「やっぱり、おかしいのは──俺じゃなかった」

とはいえ、診断されたわけじゃない。

本人に伝えるべきか、病院に連れていくべきか──何度も悩んだ。

でも、何よりも怖かったのは、“この考えを誰にも話せない”という孤独だった。

そのまま実家で潰れてしまうかもしれない──そう思った俺は、とにかく、人の気配のある場所に行こうと決めた。

向かったのは、パチンコホール。

ガヤガヤしていて、誰も俺のことなど気にしない場所。

ただ音と光に包まれて、黙って座っていられる。

それだけで、心が“ギリギリ保てる場所”だった。

「自分を保つためにホールへ行く」──
それは、世間には理解されないかもしれない。

でも、俺にとっては“命綱”だった。

ホールでの覚醒──稼ぐ力の再起動

会社に行けなくなったからといって、責任が消えるわけじゃない。

家族を守るために、欠勤した分の給料は、どこかで取り戻さなければならない。

──でも、何もない。

残ったのは、追い詰められた心と、空っぽの財布だけ。

静かな部屋では崩れてしまいそうで、人がざわつくホールに身を寄せる──そんな日々が続いた。

最初は、ただ“音”と“光”に包まれて、心を麻痺させたかっただけだ。

1円も使うつもりはなかった。

むしろ、軍資金なんてどこにもない。

だから俺は、ホールのレストルームで一日中寝ていた。

起きてはテレビを見て、たまにホールを歩き、様子を見る程度。

“打つ”というより、“呼吸する”ためにホールに通っていた。

そんなある日、ふと思い出した。

「そういえば、俺、通算して負けてないな……」

もう、3年くらいやってないだろうか。

久しぶりにやりたいという気持ちと、データを取れば勝てるんじゃないか?

という思いから、一度データを取ってみることにした。

俺はすぐにスマホを取り出し、Googleスプレッドシートに入力を始めた。

Googleスプレッドシートが助けてくれた

差枚数、回転数、設定変更の傾向──
見た目以上にホールには“情報”が詰まっていた。

パチスロ台に設定を入れるクセ、傾向、曜日の特性。
日付やイベント日、時間帯の稼働率など。

俺が必要だと判断したデータだけ、詳細に取った。

“現地でしかわからないルール”

法則性がいくつか出てきた。

金がないうちは、データ収集に徹し一日中ホールにいても、金は使わない。

1円も打たない。

そもそも、軍資金もない。

ただ、データを集め、予想した台がその日自分の思っていた通りの台なのかを確認し、さらに精度を高めるために日付や月単位での法則を再確認し、“勝てる流れ”を見極める日々。

そうしているうちに、アルバイトの吉野家の給料日がやってきた。

「これで軍資金ができた」──そう思った瞬間、俺は動いた。

もう数年もパチスロから離れていたから、色々と仕様が変わり、スマスロの時代。

すべて初打ちになるが、かなりの金額をマイホールKEIZで稼ぎ出した。

打ったこともなかったが、スプレッドシートに入力してたデータから法則性が見えたため、座った台だ。

結果は予想的中ということになった。

続く日も勝ち続けた。

ヴァルヴレイヴ、聖闘士星矢、東京喰種──。

明確な根拠とデータをもとにした立ち回りは、“遊び”ではなく、完全に仕事だった。

パチスロで2ヶ月分の給料を稼ぐ

気がつけば、46スロ、5スロ含めて11日間で+約42万円。

写真を撮り忘れたものを含めれば総額で約70万円近くになる。

欠勤した分の手取り給料──2ヶ月分──

これで、欠勤していてもお金を渡せば文句は言われないと思った。

「俺はまだ、終わってない」

このとき、静かに確信した。

やっぱり俺には、稼ぐ力がある。

追い込まれても、ゼロから再起動できる力がある。

ホールという喧騒(けんそう)の中で、静かに眠っていた“野性”が、目を覚ました瞬間だった。

しかし、ふと頭にあの言葉がよぎった。

「たまたまでしょ」

結婚してから嫁が俺に植え付けてきた「たまたま」「偶然」という洗脳は簡単には拭いきれなかった。

実家で、「たまたまなのか?」自問自答している時に、一本の電話がなった。

麻生ヒューマニーセンターだ。

適当にGメールに届く転職エージェントに返信してたから、誰なのかもわからなかったが、話を聞いていると、、、

それは、次に進むための“希望の入り口”になるかもしれないと──

俺は直感した。

希望と不安──“働きやすさ”の裏に潜む現実

ようやく見えてきた“光明”──

麻生ヒューマニーセンターから紹介されたのは、大手企業の整備部門だった。

航空機なども手がけるM社の100%出資子会社だ。

履歴書を用意し、職務経歴書も用意し提出。

書類はすんなりOK

続く面接も2時間くらいかかった面接だが、すんなり通過。

一度で二次面接までしてくれる高待遇を受けた。

俺はこういう人間だと言わんばかりに、遠慮なく質問しまくった。

それだけ、「あなたの会社のことを知りたいんですよ」ということを知ってもらった上で、決めてもらいたかったからだ。

そして、何より心を動かされたのは「パワハラに対する姿勢」だった。

月に一度、パワハラ撲滅のための研修があり、社内でもパワハラには厳しい目が向けられているという。

「もう、『L』で受けたような理不尽な痛みに晒されることはない」

そう思わせてくれる、数少ない“安心できそうな場所”だった。

福利厚生も充実していて、社員の定着率も高い。

まさに、まともな会社。

──ようやく、見つけたんじゃないかと。

dodaの面接アドバイスは逆効果だと確信

“dodaの件でパワハラを受けていたことを隠したのが原因でうまくいかなかったと確信していた”

ここでは、正直にパワハラを受け、殴られたことも、民間整備工場WGで違法行為が大量にあり、残業代未払いなどもあり、労働基準監督署を入れたことも全て、事実を隠さず伝えた。

それなのに、親身になって聞いてくれた。

うちでは絶対にそんなことにはならないから安心してと。

全く問題ないからぜひとも入社してほしいと、その場で言われた。

その2日後に条件が提示された。

ディーラー「L」のような給与水準ではなかったが、“人として扱ってくれる”だけで、ここまで心が軽くなるものかと感じていた。

だが──俺の足は、まだ前に進めなかった。

場所が少し遠かった。

通勤だけで、すでに削られている体力をさらに蝕まれる。

本業に加え、副業の責任もある。

ただでさえ寝る時間がないのに、これ以上、生活の“余白”を削って大丈夫か?

年齢のこともある。

炎天下での作業、エアコンのない現場──そこに“定年までの自分”を想像したとき、ほんのわずかな“不安”が、胸の中にじわじわと広がっていった。

人間関係も良さそうだった。

一緒に働くであろう人たちの雰囲気も、とても柔らかかった。

せっかく、俺を必要としてくれている。

快く受け入れてくれるところではある。

それでも

──「この道を選んだ先に、本当に“俺の人生”があるのか?」

そんな問いが、頭を離れなかった。

──そして、興味を持っていた就労支援B型事業所のPUに話を聞いてみようと動いた。

異業種、経験ゼロ就労支援との出会い

就労支援B型事業所PU──

その名を初めて目にしたとき、正直、ピンと来たわけじゃない。

だが、求人内容を見ているうちに、なぜか胸の奥がざわついた。

「ここでなら、俺は“壊れずに働ける”かもしれない」──

そんな直感があった。

面接当日、俺の経歴書を見たPUの社長は、目を輝かせてこう言った。

「経歴がおもしろいねぇ!なんでもできるじゃん!」

そして、俺が個人事業主としてやってきたこと──

情報ビジネス、コンテンツ制作、マーケティング、セールスライティングの話をした途端、
彼の目はさらに鋭く光った。

「ぜひうちに欲しい!その分野に精通している人、ずっと探してたんだ!」

──そうして、俺は就労支援B型事業所「PU」からも内定をもらった。

衰えとの格闘

だが、決断は簡単じゃなかった。

麻生ヒューマにセンターからの紹介で受けた大手出資の整備工場と、異業種で未経験、一切の知識もない就労継続支援B型事業所の2社で悩みまくった。

同じタイミングで内定をもらっていた、「M」の100%子会社──整備部門。

こちらは正真正銘の“大手”。

福利厚生も申し分なく、職場環境も良好。

だが、現場は炎天下、冷房のない環境。

副業を抱えている今の俺にとって、その体力勝負の現場は**「定年まで戦えるか」**という不安を拭えなかった。

一方で、就労支援B型事業所「PU」は未経験の異業種、安月給──

だが、頭を使い、経験を活かし、副業と両立できる環境が整っていた。

迷いに迷った俺は、マイホームにいる嫁にLINEで相談を投げた。

が、

──既読スルー。

俺は思った。

「ああ、自分で決めろってことか」と。

最終的に、自問自答を繰り返し、決断を下した。

「定年まで、壊れずに生き抜けるのはどっちだ?」

そして──「M」の子会社の整備部門の内定を断った。

大手を蹴ってまで異業種を選んだワケ

正直に言えば、未練はあるさ。

こんな大手が、俺を必要としてくれていたんだからな。

内定を辞退した翌日、担当の麻生ヒューマニーセンターから連絡が入った。

「本当に残念がってました。何か交渉できる条件はありますか?」

だが、俺の意志は変わらなかった。

さらに翌日も、先方は「もう一度考え直してくれないか」と言ってくれた。

──ありがたかった。本当に感謝している。

でも俺は、未練を断ち切った。

たとえ未経験だろうと、異業種だろうと、就労支援B型という福祉系でうまくいかなかったとしても、一度断った場所に「やっぱり戻らせてください」なんて言えるわけがない。

そんなのVELNISじゃない。

受け入れてくれるから行く──なんて、保険をかけた生き方は、もうしない。

俺は、“本当に自分を活かせる場所”で、再起を計る。

就労支援B型事業所「PU」で、自分のすべてを懸けて、新しい人生を始めるんだ。

「整備士として、ここまで走り続けてきた。 だけど、今度は“人を支える側”として、次のフィールドで戦ってみよう。」

俺は、そう決意した。

再びパチスロ稼働をしていたある日の出来事

もう転職活動をする必要がなくなった安堵から、俺はまたパチンコホールに向かった。

2ヶ月分の給料を稼ぐ名目で始めたパチスロ稼働は、いつしか本気の立ち回りへと変わっていた。

気がつけば、収支は80万円を突破していた。

そんなある日。

家に必要なものを取りに行った際、嫁からこう聞かれた。

「……もう、決めたの?」

不機嫌そうな嫁に俺は、、、

「うん、『PU』にしたよ」

そう伝えた途端、嫁は激昂した。

「なんで勝手に決めるの!」
「相談してよ!」

と、だが、その怒声はもう、俺の心には響かなかった。

そもそも、相談しても既読スルーしたじゃないか。

俺はとっくに、心を閉ざしていた。

何を言われても、何も感じなかった。

俺は黙って荷物を取り、また実家へと戻った。

すぐにパチスロを打ちに行った。

ほぼ毎日、少なくても収支を上乗せしていった。

月収100万円が狙えるところまで来ていた…のだが…

そして翌朝もホールへ──
いつものように、静かに、冷静に。

だがその日は、妙にうまくいかなかった。

狙いはすべて外れ、ハイエナに俺が追うのを面倒になって捨てた台で、出され、打つ台すらなかった。

イベント日だった。

いつもはイベント日を避ける。なぜなら、予想した台が複数あった時に途中で移動がしやすいからだ。

この日は移動しようにも俺のデータ場で狙い目の台は埋まっており、すでに出している状態。

だから、なんとなくで狙った台が全て外れるのは当然のことだった。

思考を切り替えて、「今日はもう、遊びでいいか」そう思って、普段は触らない機種を適当に回していた。

──その時、スマホが震えた

画面に映った名前を見て、心臓が凍った。

嫁だった。

正直、怖かった。

会社に行っていないことがバレたのかもしれない。

何かを責められるのかもしれない。

怒鳴られる覚悟で、震える指でスマホを取った。

──けれど、その声は静かだった。

「……お昼、帰ってこれる?」

その一言に、俺は何も言えなくなった。

「う、うん……帰るよ」

そう応え、すぐにホールを後にした。

当たっていた台は休憩札を挿して放置したまま。

そんなものより、今は“家族の時間”のほうが大事だった。

玄関のドアノブに手をかけるだけで、心臓が爆発しそうだった。

リビングに入ると、嫁が言った。

「座って」

言われるがまま正座した。
次の瞬間──

泣きながら俺を抱きしめてくる嫁

「ごめんね……ほんとに、ごめんね……」と何度も繰り返す。

「ごめんね、私のせいだよね……わかってあげられなくて、ごめん。」

「辛かったよね。言えなかったよね。」

涙がこぼれた。

結婚してから一度も謝らなかった彼女が、初めて、俺に“ごめん”と言ってくれた。

──あれだけ強く、冷たく、怒っていた彼女が、初めて謝ってきた。

その姿に、俺は戸惑いながらも救われた気がした。

「もう『L』行かなくていいよ。 そんなに苦しかったんだね……気づけなくてごめん」

──ようやく、俺の“戦い”が伝わった気がした。

やっと届いた。
やっと、わかってくれた。
やっと、俺の“苦しさ”に気づいてくれた。

それだけで、救われた。

二人とも落ち着いた。

「もう、戻ってきてもいいよ。次の会社まで二人でどっか行ったりしよ」

嫁は優しかった。

それでも、彼女は言った。

「……でも、パチスロはやめてほしいよ。」

ここまで稼いだことも、勝ち続けていることも、データを取って本格的にやっていて確証が得られていることも、全て伝えた。

だが、やはり「たまたま」で片付けられた。

株で30万円を3年で1000万円目前まで増やしたときも、全部利確して下ろされた。

──まぁ、いいさ。

「一旦、引くか」

そう思ったのも、確かだった。

この瞬間が、家族の再接続の始まりだったと、今では思っている。

転職活動の終焉

それからしばらくは、二人で過ごす時間を大切にした。

子どもを連れて、10年ぶりにユニバーサルスタジオにも行った。

美味しいものを食べ、普通の家族のように笑った。

俺の“努力”や“構築した仕組み”は、
いつも「たまたま」という言葉で切り捨てられてきた。

でもそれでもいい。

嫁が笑っていて、子どもが泣かずにすむなら、それでいい。

そして俺は、「たまにだけ打たせて」と約束し、承諾を得た。

──新しい仕事が始まるまでの、短い休息。

だがその期間で、すでに3回稼働して42万円を勝っていた。

俺には、“勝つための型”がある。

“データ”がある。

そして、“取り戻す力”がある。

たとえ何度倒れても──
俺は、また這い上がってみせる。

VELNIS、再始動──自由と闘争の福祉現場へ

整備士として、整備主任者…工場長、整備部長として。

車の下に潜り、オイルにまみれ、工具を振るってきた16年間。

──だが、俺の“整備”は、車じゃなく、“人間”に向かうことになった。

異業種転職──未経験からの福祉業界

俺が選んだのはまさかの“福祉業界”。

正直、整備士からここに来るなんて、自分でも想像していなかった。

俺が次の転職先に選んだのは、就労継続支援B型事業所という、まったくの異業種だった。

だが、あの地獄のような職場を経験し、心身ともに限界を迎えた俺にとって、「人として壊れない働き方」を探すことは“生きる”という意味に直結していた。

ここは“働くこと”に苦しみを抱える人たちのための場所だった。

うつ病、発達障害、適応障害、強迫性障害、パーソナリティ障害──
「社会」に順応できず、でも「働きたい」と願う者たちの砦。

初めてだった。

“働く”ということに、ここまで“優しさ”が存在している場所を見たのは。

かつての俺と同じように、折れかけた心を抱えた“戦士”たちが集まる現場だ。

車ではなく、“人間”に向き合う日々。

エンジンの調子よりも、利用者の体調や心の変化に目を向ける。

それは俺にとって“修理”ではなく、“再起動”だった。

人が前に進むには、“寄り添い”と“導き”が必要だ。

だがそれは、ただ甘やかすことじゃない。

“共に戦う覚悟”が求められる。

俺はこの現場で、自分が整備士として磨いてきたスキル──
『観察力、問題解決力、現場対応力、そして“本気”』を、新たな形で発揮することになる。

VELNISが見据える未来

この転職は、“逃げ”じゃない。

俺は家族を守るために、自分の人生をやり直すために、“戦うフィールド”を変えただけだ。

この福祉の世界で得た経験は、やがて**“VELNIS”という名のメッセージ**へと昇華していく。

かつての俺のように、ブラック企業で心が壊れかけている奴に向けて。

このブログは、、、

“整備士としての人生”

“異業種での再起動”

をかけ合わせた、唯一無二の「脱ブラック実録書」となる。

俺の失敗も、痛みも、絶望も、すべてが「再出発の道しるべ」になる。

転職は逃げじゃない──それは、未来を選び直すこと

俺はスーパーカー“L”というハイブランドな職場でさえ、たった7日で拳を喰らった。

有名企業だろうが、高級だろうが──中身が腐っていれば、意味がない。

その時、静かに俺は動き出した。

登録したのは「doda」「doda X」「ビズリーチ」「エンゲージ」──
どれも、“次のステージ”を探すための武器だ。

ブラック企業から脱出するために、最初にすべきこと

「どこに行けばいいのか分からない」
「何を基準に選べばいいのか分からない」

そんな時は、“情報を持ってる人間”に頼るべきなんだ。

今まで転職で何度も失敗してきた俺だからこそ分かる。

ハローワークや求人誌だけじゃ、本当の“会社の中身”は見えない。

だから俺は、このブログで、“信用できる転職エージェント・サイト”を厳選してまとめている。

もし君が「今の会社、何かがおかしい」と思ってるなら──

その違和感、間違ってない。

自分を信じて、一歩を踏み出してみろ。

整備士のための転職エージェント/サイト/口コミランキングはこちら
本当に使える転職サイト・エージェント・口コミサイトランキング【2025年最新版】
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整備士という“武器”を捨てて、俺は何者になった?

「自動車整備士」として16年だ。

それを捨てた俺には、何が残ったのか──?

答えはこうだ。

“過去に囚われないという強さ”が、残った。

現場に立っていた俺が今、“サポートする側”に回っているという事実。

最初は違和感しかなかった。

「こんなにゆるくていいのか?」
「この人たちは“戦っていない”んじゃないか?」とさえ思った。

だが違った。

彼らは、“見えない敵”と戦っている。

目に見えない恐怖や焦燥、社会からのプレッシャー、過去のトラウマと──

毎日、自分の中の“闇”と戦っている。

そんな彼らをサポートすることで、“かつての俺”を救っているような気がした。

「整備士をやっていた俺」ではなく、「生き方を見せる俺」として、価値を発揮できる場所がここにあった。

“福祉”は甘くない──本物の覚悟を問われる職場

とはいえ、“福祉”はぬるま湯なんかじゃない。

職員の中には、現役Vtuber、eスポーツ優勝者、──
いわば、人生の修羅場を超えてきた猛者たちが集まっている。

そしてその中で、“俺は何ができるのか?”が常に問われる。

だが俺には、
「地獄の整備現場でも、笑顔を失わなかった過去」
「ネットビジネスで年収660万円を叩き出した経験」
「ブラック企業の内情を知り尽くした視点」がある。

それらをすべて、“現場の改善”に活かせばいい。

誰かの役に立つってのは、
「できることをする」ことじゃない。
「過去の自分がしてほしかったこと」を今の自分が誰かにすることだ。

これが“俺のラスト転職”だ

ここまで、何度も転職してきた。
笑われてもいい。批判されても構わない。

だが、俺のこの転職遍歴には、すべて意味があった。

  • T自動車ディーラーで、社会の“表”を知った
  • コンテナ修理会社ADで、“自由”と“副業”の価値に目覚めた
  • 民間整備工場WGで、ブラックの“底”を見た
  • 高級外車ディーラー「L」で、理不尽という名の暴力に心を折られた
  • そして今──「人としての再構築」をしている

俺の人生は“無駄”じゃなかった。
いや、むしろこのブログを書くためにすべてが“必要”だったんだ。

VELNISの名のもとに──次に目指す場所

VELNIS──それは、“己を貫く覚悟”の名前。

今、俺は“整備士”でもなければ“情報商材屋”でもない。
“支援者”であり、“証言者”だ。

ブラック企業を見てきた人間として、
そこから抜け出した方法を知っている人間として──

次に目指すのは、“救う側”だ。

VELNISという仮面は、もう俺の皮膚に染み込んでいる。

あとは、その生き様をブログに刻み、
「もう一人の俺」──つまり、“君”を救うだけだ。

Xからの読者コメントを期待している。
ブログ更新楽しみにしていてほしい。
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